吉良邸跡(本所松坂町公園)
両国小学校の少し西側、旧本所松坂町、現在の墨田区両国三丁目に、なまこ壁に囲まれた「吉良邸跡」があります。元禄十五年(一七〇二)十二月十四日、赤穂の四十七士が討入りしたところで、『忠臣蔵』で知られるところです。
吉良上野介の屋敷は、はじめ鍛冶橋の屋敷を拝領していましたが、刃傷事件のあと、赤穂浪士が吉良屋敷に討入るという噂があり、周囲の大名屋敷から苦情が出て、元禄十四年八月御用地として幕府に召し上げられ、一時こどもの上杉弾正大弼の屋敷に身を寄せ、その後、同年九月、ここ本所松坂町の松平登之助の屋敷を拝領し移り住みました。江戸城近くの屋敷から比べれば、赤穂浪士の討入りは、格段に容易になったと世間でいわれました。
この吉良家上屋敷は、広大で東西七十三間(約一三二m)南北三十四間(約六二m)、二千五百五十坪(約八四〇〇㎡)と記されています。吉良上野介がこの屋敷を拝領したのが、元禄十四年(一七〇一)九月三日、義士の討入りがあって没収されたのが、元禄十六年二月四日と、前後一年半に満たない短期間でした。
屋敷の表門は東側、今の両国小学校に面した方にあり、裏門は西側で、東・西・南の三方は周囲に長屋があり、北側に本田弥太郎、土屋主税の屋敷と地続きになっていました。建坪は、母屋が三百八十八坪(約一二八〇㎡)長屋は、四百二十六坪(約一四〇〇㎡)でありました。
現在、「吉良邸跡」として残る本所松坂町公園は、二十九・五坪(約九八㎡)で、当時の八十六分の一に過ぎません。これは昭和九年(一九三四)地元両国三丁目町会有志が発起人となって、邸内の「吉良公 御首級(みしるし)洗い井戸」を中心に土地を購入し、同年三月に東京市に寄付し、貴重な旧跡が維持されました。区への移管は、昭和二十五年(一九五〇)九月です。
現在は、公園を取り囲む高家の格式を表す「なまこ壁」と黒塗りの門が、僅かに、当地の模様を偲ばせています。
園内にあります吉良上野介の座像制作に当たっては、愛知県吉良町に吉良の菩提寺華蔵寺があり、上野公五十歳の時、一六九〇年頃自らが造らせた寄木造の座像が現存しています。その姿型をそっくりに、また愛知県歴史編纂委員会の調査資料を参考に制作いたしました。
両国三丁目町会と吉良邸跡保存会が主体となり、吉良町のご協力も頂きました。
(平成二十二年十二月十二日建立)
吉良上野介追慕碑
松坂稲荷
吉良家家臣二十士碑
みしるし洗い井戸
吉良上野介公像
〈園内全景〉
吉良上野介義央(一六四一~一七〇二)
吉良家は、清和天皇の末裔で先祖は足利左馬頭義氏。江戸城における一切の典礼を司る高家の地位を得たのは、祖父義弥の時です。寛永一八年生まれで三郎の幼名を名のった義央 は、一三才で将軍家綱に謁見しました。のちに、京への使者を任され、立派にその大任を果したことから、以後有職故実の家柄として重用されるようになりました。
賓客を応待することにかけては、義央はまさに天才だったようです。
忠臣蔵では悪役に仕立てられた上野介でしたが、領地の三河の吉良(愛知県西尾市吉良町)では評判が高く、町の人は今でも「吉良様」と呼んで敬っている善政の殿様でした。
新田の開拓や塩業の発展に尽力するなど、多くの事業で成功をおさめ、特に一昼夜で築いたといわれる長さ百八十二mの堤があり、この治水工事で豊作が保証されたことから、今でも「黄金堤」と呼ばれています。領地に滞在している間は、赤い馬に乗って領内を巡回するのが日課としており、「吉良の赤馬」は名君吉良様と共に今でもその名を残しています。
<両国三丁目吉良邸保存会 制作パンフレットより転載>